山形 杵屋本店 企業ページ

杵屋本店200年の歴史 

 

杵屋本店200年の歴史

西暦1811年(文化八年)~熊野大社との深い関係~

東北のお伊勢様と言われた山形県南陽市宮内、熊野大社。起源は不明とされますが、西暦806年ごろに再建されたと伝わっております。古くは参拝する大勢の善男善女が参道を往来し、今では信じられないほどの賑わいが町を活気づけておりました。

山形県南陽市を高台から望む。白竜湖。

山形県南陽市を高台から望む。白竜湖。周辺ではぶとうの生産や桃の生産などが盛ん。

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熊野大社本殿。 現在では縁結びの神様として 若い女性や男性に人気がある。

杵屋本店の起源は、1811年に初代「庄六」が熊野大社の参拝客に向けて饅頭を作り販売したことが始まりです。詳しい資料は残念ながら歴史が古いため記録が残っておりませんが、街のにぎわいと共に業績を伸ばし、屋号である一星マーク(が羊羹、●がまんじゅう)で始まったように、まんじゅうと羊羹が人気で、地域の人々に親しまれたと伝えられます。

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大正8年の熊野大社参道の様子。 雪が積もる中人々賑わいがあるのがわかります。

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現在の熊野大社参道。

 

西暦1880年(明治13年)~煉羊羹を発売~

現在の練羊羹。艶は美味しさの証です。

現在の練羊羹。艶は美味しさの証です

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当時の形を引き継ぎ、現在も笹の葉で巻いています。

明治に入り、杵屋の定番商品は「煉羊羹」でした。宮内の人々に「死ぬときには杵屋の煉羊羹を思う存分食べたい」と言わしめたほど、杵屋の人気商品として成長致しました。おおよそ2時間丁寧にしっかりと練り上げる。寒天を入れ、更に練り上げカラメル臭がでる一歩手前で煉を終える。この過程の火加減、煉加減で美味しさが決まる職人技です。火の熱と、鍋から撥ねるものをかわしながら苦闘するこの仕事は、昭和二十年代の50人居た職人の中でもたった2人しか許されていませんでした。

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餡を「煉る」様子。焦げ付かないように常にかき回さなければならない。10キロ~20キロの餡をかき回すのも重労働だ。

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大正8年当時の杵屋。店の上には練羊羹の文字が見え、当時でも人気なのがわかります。

第二次世界大戦の時代に入り、戦中、戦後と店を守ったのが7代目の妻「わき」でした。
「わき」の仕事は、煉り上がった羊羹を羊羹舟に流し、固まったら大きな包丁で切り分けることでした。

「仕事には厳しい人でした。切った羊羹が包丁についてしまうと出来が悪い!と作り直しさせられました。工場に入って来て、職人の中で餡の搾りも仕切るほどでした。」
〈小松定徳元取締役談〉

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中央左が8代目、中央右の女性、8代目の母であり、7代目の妻わき。 わきは戦時中店を切り盛りした。

小松さん

小松定徳 元取締役

 

 倒産の危機に瀕した昭和初期

昭和恐慌とよばれた大不況が日本を襲った時、杵屋も例外ではなく影響を受けました。7代目の妹の嫁ぎ先の製紙工場が倒産し、連帯保証の為膨大な負債を被ることになってしまいました。そんな中活躍したのは杵屋8代目です。8代目は飲食業に活路を求め、お店の裏通りで夜はカフェ業を経営するという大変な苦難の道を歩んだ時期がありました。なんとか大きな収入源になり一難をしのぎます。アイディアマンである8代目は次の手を既に考えていました。それはアイスキャンデーの製造販売を始めること。競業する業者もありましたが、お菓子屋センスの飴風味や、ミルクたっぷりのキャンデーは他を圧倒して大変な売れっぷり。
こうして8代目の昼夜を分かたぬ必死の努力と、親戚の協力で杵屋はあわやの危機を脱する事ができました。

昭和5年新たにカフェを始めた当時の写真。

昭和5年新たにカフェを始めた当時の写真。

時勢に合わせ、知恵を絞り、戦争をどうにか乗り切りましたが、戦後、菓子屋に必要な小豆、砂糖は配給制になってしまい、必要な分が全く足りず闇市で手に入れていましたが、南陽市の
闇屋の言いなりになってしまい、価格がべらぼうに高く、量が手に入らず菓子を作ることすらままなりません。
最終的に8代目が英断したのが、物量がある県都山形市への進出でした。

 

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